大学で仏教を学んでいたときには、”仏教”という言葉を使わずに仏教を説明すればいいのではないかと思い、その視点であれやこれや考えたものです。その延長で仏教語を使わずに説明してみたりもしましたが、回りくどい説明になり、例えば「縁」という言葉を聞けば、日本で生まれ育っていれば何となく「縁がある」「縁がない」「縁を結ぶ」「縁を切る」といったことが身近にあるもので、その意味が分かるんです。じゃあ、分かる仏教語は使おうということで、認知されているんならそれでいいじゃないかという思いもあります。
法事や何かで法話をする機会は数えきれないほどありましたが、仏教語の説明をしたり、その時に読んだお経の説明をしたり、基本的な法話の形というものはあります。落語などの伝統芸能と同じで、お師匠さんの真似をするところから入りましたが、その会場の雰囲気に合わせて自然と変化していくものです。ただ、法話なので、仏教的なことを聞きたいと期待している方々が結構いました。「そういった話が聞きたかった!」と言ってもらえる時は嬉しいものです。
いろいろ経験して分かったことは、形式的に話しても伝わらないということです。正しいことを言っていても、教科書通り、辞書に書いている通り言っても、右から左へということが多いかもしれません。托鉢をしてとか、坐禅をしてとか、どういった道具を使ってとか、聞いてもらう人に何かをイメージしてもらうような話がいいのかもしれません。道具の話をするなら、話すときに道具を持ちながらとか、そうすれば、話している方も道具を軸に説明していけば、つたない話し方でも、イメージを共有できるので間が怖くありません。
お坊さんが法衣や袈裟をつけているのも、伝統的に伝えられてきたものだからですが、普通の格好をしていたら、聞き手も話の取り方が変わるでしょう。お坊さんがお坊さんの格好をして話しているから、もっともらしい話に聞こえるけれど、普通の格好をして同じ話をしてもつまらないかもしれません。
ある実験をしたのですが、YouTubeチャンネルを2つつくって1年間運営してみました。去年の9月から今年の8月までやって実験終了ということで現在は削除しました。1つは、普通のTシャツなどの格好、片方は作務衣を着て頭にはタオル(修行僧スタイル)。動画の数はどちらも100本以上アップロードして、総再生回数は約2万回と3万回、登録者数は約110人と230人というように、同じような話をしていても、修行僧スタイルの方が1.5倍ほど多く再生され、登録者も多かったのです。
ソーシャルメディアの場合、知名度や宣伝、タイミングによって再生数や登録者数は左右されます。お坊さんならお坊さんの格好で露出する方が有利のようです。その人が誰であれ、お坊さんという枠の中の人というくくりで見られます。まあ、これは良くも悪くもあるのですが。
学校であれば、先生は賢くて偉いんだと思われているから、生徒は話を聞こうとするし、学ぼうとするわけです。
仕事であれば、上司は経験があってリーダーシップを発揮してくれると思われているから、部下は指示を聞こうとするし、ベストを尽くそうとするわけです。
お坊さんであれば、修行を積んでいる人だと思われているから、聴衆はその言葉には意味があるんだという風に聞いてくれるわけです。
もし、この関係が崩れているなと感じたならば、どのように生きれば良いかは、おのずと分かってきます。
※ この内容は歴史上の事実を現わすものでも、特定の学説や宗派を優位・劣位にするものでもありません。
法要依頼 お布施10000円(法事や追善供養、祈願、ペット供養/オプションで戒名授与、開眼、閉眼も可能)
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